限りある時間の使い方

時間がなぜ必要か?
時間がなければできることが限られてしまう。
数人以上で何かを成し遂げようとする場合、全員の認識が揃っている必要がある。
いくつかある要素の中に「時間」も存在する。
会議で時間という要素がない場合、いつ始めていつ終わればいいのかが不明確になる。
その内容にどの程度の時間をかけてもいい内容かさえ判断ができなくなる。

時間は標準化され、可視化され、人々は時間を測定できるものとして捉え生活の中で活動を行う際に考えるべき一つの基準として捉えるようになった。
時計が開発され時計の針が刻むものが時間になった。

時間給という考え方が生まれ、時間内での仕事の対価として給料が支払われ生活を営んでいく。

そして、時間あたりどれくらいの活動をこなせば、その対価と釣り合うかということを考えるようになった。
時間という考え方が進行し、効率化という言葉が蔓延している現代では以下に無駄なく時間を使えるかに価値が置かれる。

時間を優位に使うという姿勢でいることで実は本質的な問題を避けている

どんなに効率性を高めてもやるべきことが0になることはない。
何も心配のない平穏な状態が実現できることはない。

生産性を追求すると結局、究極の質問に行き着く。
それは自分は一体何のために生きているのか?という問いである。

不安な常につきまとうし不安を感じても人生は続く。
生きている以上、不安を感じ続けるのだ。
恋愛で傷つきたくない、仕事で挫折したくない。

必ず成功するということが義務付けられているかのようだ。
人生で失敗するということから目を背けるために、自分の人生がより充実になるように、時間の効率化を求めているだけじゃないのか?
でも、実際は余った時間で結局くだらない娯楽を享受し、もったいない時間を過ごしたなと後悔し続けているのではないだろうか?
本当に目指すべきは、余った時間で自分が人生を充実していると感じられるものを見つけ出すことではないだろうか?

やりたいことに注力する

難しい選択は避けられない。
全部をやりきる時間も存在しない。
限られた時間も自分でコントロールすることが完全に出来るわけではない。
体力、才能も揃っているわけではない。
そんな中でどうしていくべきか。
すべてを完璧にこなせる術を身につけるか?
先延ばしにして失敗せず可能性の中に生きるか?

忙しい日々も怠惰な毎日も現実を生きるという現実から逃避したいからだ。

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